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【特集:ふくしまを盛り上げる人たち】Vol.10 オプティカルヤブウチ 藪内義久さん

デザインが好きな眼鏡屋さんの5代目が、県庁通りから「ちいさな街を作る」

オプティカルヤブウチ 藪内義久さん

2024年、新しいビルやお店が増え、盛り上がりを見せる福島市大町の県庁通り。その一角に店を構え、かつては時計店・現在は眼鏡店として150年近く街の移り変わりを見守ってきた「オプティカルヤブウチ」があります。

5代目店主の藪内義久さんは、この街を離れて、また戻ることを繰り返しながら、40年近く大町の移り変わりを見守ってきたお一人。この記事では街がどんな変遷を遂げてきたのか、藪内さんがどのように街と関わってきたのか、今後の展望などを藪内さんの視点でお届けします。

藪内義久さんプロフィール
1979年福島市生まれ。東京の眼鏡専門学校を卒業後、都内雑貨店に勤務。イギリスへ語学留学後の2004年、家業を継ぐために福島市へUターン。「ニューヤブウチビル」の2階を任され、雑貨と眼鏡を取り扱う店をオープン。2014年に両親から1階店舗を受け継ぎ、ビル全体のセルフプロデュースを13年かけて進める。2024年8月に新進気鋭のテナントを誘致した「ノノトリビル」をオープンする。

「オプティカルヤブウチ」と、藪内さんの幼少~青年期

オプティカルヤブウチ 藪内義久さん

藪内さんの家業の歴史を示す写真の数々

藪内さんが経営する眼鏡店「オプティカルヤブウチ」は、初代は時計店としてスタートし、3代目から眼鏡店に転向。2025年には創業150年を迎えます。

藪内さんは5代目店主として眼鏡のセレクト・販売、修理などを行うほか、オールウッドフレームの眼鏡ブランド「COYA(荒野)」を立ち上げ、国内外から高い評価を受けています。

幼少期は「親を喜ばせたい」という理由で眼鏡店を継ごうと考えていた藪内さんですが、高校生の頃にはデザインの勉強をしたいと思うようになります。両親に相談するも家業を継ぐ道しか許されず、東京の眼鏡専門学校へ進学。

その頃はまだ「眼鏡=視力を補う道具」という認識が一般的な時代でしたが、専門学校時代に、眼鏡をファッションの一部へと昇華させパリコレのアイテムなども手がける眼鏡店に出合います。

眼鏡店の店主との関わりの中で、本当に自分が好きなのは、やっぱりデザインだと気づいた藪内さん。専門学校の同期のほとんどが眼鏡店へ就職する中、都内の雑貨店へ就職しました。

幼少期からの街並みが一変。使命感で企画したイベントで街との関わりが生まれる(2002~)

——都内の雑貨店に就職後、一度福島に戻られたとのことですが、その頃の街の様子を教えてください。

2002年、24歳の頃に東京の住居が取り壊しになり、福島市に戻りました。1998年に市内笹谷に福島サティ(現イオン福島店)ができて以降、駅前エリアからどんどん人が少なくなり、幼い頃から見てきた街並みが一変していました。

まだ福島駅前にデパートがいくつかありましたが、僕たちが高校生の頃はファッションの発信地だったファッションビルの「コルニエツタヤ」が空きテナントばかりになって、人通りも少なくて。駅前の街歩きの楽しさがなくなり、「どうした福島⁉」と驚きました。

——藪内さんは眼鏡店を手伝っていたのですか?

僕は眼鏡店での実務経験がなく、できることが限られていました。当時はうちの眼鏡店も売上がとても低くて。お店がある県庁通りを利用する固定客の方々のおかげで細々やっていけている、そんな状態だったと思います。

そこで僕は、この街に何が必要か、どうしたら街が楽しくなるのかを考えて、県庁通り周辺のお店をめぐるスタンプラリーを企画しました。

県庁通りを訪れるお客さんに周遊してもらうことを目的に、周辺18店舗のマップを作成。各店舗からプレゼントの商品を出してもらって、最後に抽選会を行ったりして、600人くらいお客さんが来てくれて大成功でした。そんなイベントを全部で3回開催しました。

オプティカルヤブウチ 藪内義久さん

第2回目は新浜公園でイベントを開催

——イベント企画に対する商店街の皆さんの反応はいかがでしたか?

初めて顔を合わせる人が多く、「どこの人が来たのか?」みたいな顔をされたのを覚えています。その中でも協力してくださる方、また「やっても意味がない」と反対される方もいらっしゃいましたね。

当時の僕は謎の使命感に燃えていて、「週1回は集まって、もっと街を良くしましょう!」なんて一人で空回ってました。でも全然仲間が集まらなくて。

そんな経験から、仲間を作りたいなら一方的に提案を押し付けるのではなく、一緒に相談して作っていかないといけないんだな、と学びました。
つらい思いもたくさんしましたが、この経験から諦めない気持ちが育ったし、やればできるんだ、と思えるようにもなりました。僕の街に対する考え方は、このときに確立されました。

——行動力がありますね! その後イギリスに語学留学されたそうですね。

オプティカルヤブウチ 藪内義久さん

イギリスのホームステイ先の友人たちと

イギリスに1年間、ワーキングホリデーで働きながら語学留学しました。その間、デザイン学校のショートスクールでデザインの勉強をしていたのですが、本当に楽しかった。

改めてイギリスの大学で4年間勉強しようと準備を進めていましたが、両親の耳に入り「お前がその学校へ行くなら、もう店を辞める」とまで言われてしまいました。僕は5代目だから、じいちゃんやひいじいちゃんの顔を思い浮かべると心苦しくて。結局、大学進学をあきらめて、1年で福島に戻りました。

自分ができる範囲で、2階店舗のセルフプロデュース(2004~)

オプティカルヤブウチ 藪内義久さん

セルフプロデュースした「オプティカルヤブウチ2F」

——イギリス留学から帰国後はどのような心境でしたか?

「福島に戻りたくない」って腐ってましたね。でも唯一よかったのは、父からビルの2階を任せてもらえたこと。

自分で世界観を作れるのが嬉しくて、4か月かけてセルフプロデュースして、眼鏡と雑貨を扱う店「オプティカルヤブウチ2F」をオープンしました。でも、蓋を開けてみたら商売はとても難しくて、なかなか売上が上がりませんでした。

その当時の県庁通りは、以前にも増してひどい状況でしたね。面白い店は商店街にいっぱいあったけど、保守的な方が多く、ただ廃れていくのを見ていることしかできませんでした。

そんなときに、尊敬する知り合いからこんなことを言われました。
「藪内くん腐ってるね。『仕事をしっかり、遊びを楽しく』って思ってるでしょ。それ、逆だからね。『仕事は楽しく、遊びをしっかり』だよ。仕事をどう楽しくするかを考えられていないうちは、プロじゃないと思う」

その言葉を聞いてハッとしました。そこからは仕事を楽しくしようと思って、「ちいさな街を作ろう」をコンセプトに、店の内装やビル全体をデザインして施工したり、自分好みのテナントを誘致したり、眼鏡を一からデザインして作ったりと、一人でコツコツ進めました。

「できる範囲でやってみよう」と、力を抜いて考えられるようになったのがそのときじゃないかな。

オプティカルヤブウチ 藪内義久さん

「オプティカルヤブウチ2F」の改装前の様子

震災を機に街の衰退が加速。福島の現状を発信する団体を設立(2011~)

——震災当時は県外に避難されたのでしょうか?

ビルにテナントが2店舗入ってくれて、僕の店の売上も順調に伸びていった時期に、東日本大震災がありました。当時子どもは1人、妻は第2子を妊娠中でした。

子どもへの影響を考えて避難先を探していたとき、福井の眼鏡メーカーの社長さんから「アパートに空きがあるからどうか」と連絡があり、1か月間、福井でお世話になりました。

その間にも、被災して眼鏡をなくしてしまった方に対して、無償で度付きの眼鏡を提供できるよう協力してもらえる眼鏡店に依頼し、SNSなどで告知を行ったり、被災地に老眼鏡を2万本くらい送ったりしていました。自分が県外に逃げているのが申し訳なくて。居ても立ってもいられなかったんですよね。

そんな折「福島に帰って店を手伝ってくれ」と両親から頼まれて、僕は福島市に戻り、妻と子どもたちは山形市に3年間避難しました。

——福島に戻ったときの様子はどうでしたか?

あの店もこの店もなくなっている、というイメージでした。震災前も古いお店がポツポツなくなっていましたが、それが震災で一気に加速したかたちです。

古い建物は再建が難しく、震災後は公費で解体できたので「今が辞め時」と捉える人が多かったのだと思います。跡地には駐車場がたくさんできました。
「このまま何もアクションを起こさないと、僕の店もなくなっちゃうな」という将来への不安を感じました。

——何かアクションを起こしたのですか? 

原発事故の影響でたくさんの人が避難して、たくさんのお店がつぶれて「福島、何もなくなっちゃったね」って言われるのがとても嫌だったので、「社団法人ライフク実行委員会」という団体を友人と2人で作りました。「福」島に「来」るで、ライフク。

僕は共同代表で、10店舗ほどの経営者やスタッフさんに参加を募り、ピンバッチの販売やイベントを開催しました。最終的に4万個ぐらい売れたピンバッチの売上は、被災孤児の施設に募金したり、土日避難のバスツアーの費用にしたりと、被災者支援の活動に充てました。

オプティカルヤブウチ 藪内義久さん

ピンバッチ販売イベントの様子

ほかにも、福島の街を楽しめるマップ「ライフクマップ」を作って無料配布を始めました。
震災から12年経った2023年に社団法人を解散して任意団体にした後も、ピンバッジ販売やマップ制作、震災時の募金活動などは続けています。

オプティカルヤブウチ 藪内義久さん

少しずつ更新しながら現在15号まで発行しているライフクマップ

1階店舗を受け継ぎ、ビル全体をセルフプロデュース。若者が増えてきた時期(2014~)

——震災以降、大きな変化はありましたか?

2014年に両親から1階店舗を受け継ぎ、2階にお花屋さんが入居したところで、流れが大きく変わりました。素敵なお花屋さんで、たくさんのお客さんがいらしていました。
お客さんは3階にできた食堂でご飯を食べて、ギャラリーを見て、お花屋さんを見て、レコードを見て、1階の雑貨を見てという具合に、一つのビルでストーリーができてきたのも大きいですねお客さんが大幅に増えて、売上も伸びていきました。

——2020年のコロナ禍の街の様子は?

一時的に売上は下がりましたが、また上がってきました。当時のニューヤブウチビルは全テナントを誘致できていたので、商店街の空き店舗に誰を呼ぶかを通りの店で話し合って、若い事業者が入ってきてた時期ですね。

お店がどんどん増えてきて、「県庁通りが面白い」とよく言ってもらえるようになりました。

オプティカルヤブウチ 藪内義久さん

現在のニューヤブウチビル

福島の新名所「ノノトリビル」と県庁通りのこれから(2024~)

——新たにノノトリビルをオープンした経緯は?

ニューヤブウチビルはもうテナントを誘致する場所がなくて、お店のはす向かいのビルに新たにお客様が集まる空間を作りたいなと思っていたとき、そのビルが売りに出たので、即決しました。

売りに出たビルは古いビルでしたが、古いビルはその時しか出ない雰囲気があってかっこいいんです。

ニューヤブウチビルを13年かけてセルフリノベーションしてきたので「こういうふうなお店を入れたら絶対いいな」「壊れているところをどうやって直そうかな」などと自分の中でイメージはできていました。今も毎朝8時に来て、実家が建築関係の女性スタッフと手作業で改装を進めています。
ビルの名前は「野の鳥」を意味しています。

オプティカルヤブウチ 藪内義久さん
オプティカルヤブウチ 藪内義久さん

——テナントは全部でどれくらい入るのですか?

地上4階・地下1階があるビルで、全部で16店舗入るうち、6店舗は入居が決まっています。現在は1階にカフェ「寧(ねい)」やアパレルショップ「FULLER」、花屋「Total Plants bloom」、2階にはアパレルショップ「Lapel」が入っています。
1階の小さい部屋やガレージは、チャレンジショップとして利用できるようにしました。

現在テナントの募集に関しては、こちら側からのオファーや紹介で来ていただいています。築き上げてきた人脈やつながりがどんどん広がり、人が人を呼んでくれる状態です。誘致の際には、自分がニューヤブウチビルでやってきたことを見ていただくのが一番わかりやすいですね。

——開業支援も行っているんですか?

時代の流れやいろいろな変化がありますが、普遍的なものもあります。せっかく事業を行うのであれば、やりたいこと、伝えたいことがあると思うので、続けられる方法なども一緒に考えたりお話をしたりしています。初めて事業計画書を作ったりお金を借りたりする場合には、専門家も紹介しています。

——新規出店者には心強いですね。そこにかける藪内さんの想いとは?

商売をやっていると、いろんな波があるけど楽しいです。お客さんとの会話で喜んでもらえたり、怒られて落ち込んだりするときもありますが、それで成長していくんですよね。その過程が醍醐味だと思います。
商売をしっかり継続できて、スタッフとともに成長して、働きがいや商いの楽しさを次の世代に繋いでいくところまで、この県庁通りからできたらいいなと思っています。

——ノノトリビルの今後の展望を教えてください。

今のところ第3フェーズまで考えています。第1フェーズはテナントの誘致と集客、第2フェーズはものづくり職人の誘致。3階は見学できるスペースやショールームを併設した、ものづくりの工房群にしたいと思っています。

第3フェーズは、オプティカルヤブウチの自社工房を4階に作って、オリジナルの眼鏡を作っていく。その後の最終的なかたちは、これから徐々に考えていきます。

オプティカルヤブウチ 藪内義久さん

オリジナルデザインの眼鏡作りに精を出す藪内さん

——県庁通りはこれからどのようになっていくと思いますか?

ノノトリビルができたことで、さらに人が集まる目的地としてパワーアップしていると思います。ニューヤブウチビルとノノトリビルに魅力ある店をギュッと集めて、福島の文化やカラーをちゃんと出していきたい。

県庁通りがにぎわえば、駅に続く文化通り、並木通り、電車通りなど、昔のように街なかに人が流れると思います。その姿こそ、原点回帰かもしれないですね。

——今の県庁通りを見て、藪内さんはどう感じていますか?

楽しいです。本当に。どんどん良くなってきたと感じています。
震災で一気に減少した県庁通り商店街に新しい人たちが入ってきて、手を振り合える人もたくさん増えて、子どもたちの姿や笑顔が見られたりすると、めちゃめちゃ幸せだと感じます。それを自分の手でできているのがありがたいですね。

人生一回だから、やりたいことをしっかりやらないと。お金の問題もあるけど、諦めないでしつこくやっていればクリアできるはずです。

県庁通りが街のにぎわいの起点に

「できる範囲でやってみよう」と、藪内さんは昔を羨むでも今を嘆くでもなく、自分の理想とする“街”を今なお作り続けています。

最近の福島駅周辺は少し元気がない印象でしたが、 インタビューを終えて「こんなにがんばっている人がいるんだな」と、前向きな気持ちになりました。
私もこの県庁通りを起点に、ふらっと街歩きを楽しんでみようと思います。

オプティカルヤブウチ・ノノトリビル詳細情報

店舗名 オプティカルヤブウチ
住所 福島県福島市大町9-21
電話 024-522-2659
HP・SNS http://www.eye-y.com/
公式Instagram
駐車場 なし

店舗名 ノノトリビル
住所 福島県福島市上町2-5
ノノトリビルのInstagram @nonotori_bldg
各店舗のInstagram 101 
102 FULLER
103 Total Plants bloom
202 Lapel
駐車場 なし
ノノトリビル

101 カフェ「寧」

ノノトリビル

102 アパレル「FULLER」

ノノトリビル

103 花屋「Total Plants bloom」

ノノトリビル

202 アパレル「Lapel」

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